仕事をしていると、時々「コンプレクスの強い人」と一緒に仕事をすることがある。
この場合の「コンプレクス」という言葉は、「劣等感」と読み替えてもかまわない。手に入れることのできなかった「何か」に対する執着が強い人たちだ。
コンプレクスの対象は様々で、一般的には学歴、お金、地位、出身地、容姿などを対象とする方が多い。
「オレには学歴がないけどさ」
「家が貧乏だったけどね」
「出世できなかったから」
「田舎の出だから」
「不細工だけど」
と、こちらから何も聴いていないのに、自らを嘲るような話を振ってくる場合は、コンプレクスがそこにあることを示している。
返答に困ることも多いのだが、コンプレクスを持つことそのものは悪いことではないし、大なり小なり誰でも持っているものだ。
また、偉大な業績を残す人はしばしば、強いコンプレクスを持っていることがある。
だが、コンプレクスが「バネ」になるのは、コンプレクスを制御し、それを自律的に操ることができている限り、という条件がつく。
その場合は、コンプレクスはモチベーションの源泉として非常に有用である。満たされている人より、満たされていない野良犬の方がはるかに強いのは周知のとおりである。
しかし、少なくない数の方がコンプレクスに「飲み込まれてしまう」ことがある。
例えば自分自身が高卒であり、学歴に関して常にコンプレクスを抱いていた経営者のTさんは、高学歴の人材ばかりを雇い入れることに執着した。
高学歴の人物を従えているという満足感は彼の劣等感を減らしはしたが、無能な高学歴をたくさん雇い入れてしまったため「人を見る目がない」と、結果的に社内外の冷笑にさらされることになった。
容姿に対するコンプレクスの強い、女性管理職のRさんは容姿の優れた若いアシスタントが入社すると、必要以上にきつく当たった。
皆その事実を把握していたが、デリケートな問題を正面から指摘することが憚られるのと、彼女が実績を上げているので、だれも何も言わなかった。
某大手保険会社に勤める東大出身のIさんは、残念ながら40歳を過ぎても課長になることができなかった。出世していく同期や後輩をみて鬱屈とした彼は、事あるたびに学歴をひけらかし、皆から敬遠されてしまった。
彼と話すと、極端な学歴偏重主義に陥っていることがわかるが、それは出世できなかったことに対する裏返しであることを皆わかっていた。
逆に、強いコンプレクスという諸刃の剣を完全に統制下においている人もいる。
彼らは、自らの醜い部分、イヤな部分、そして人間として弱い部分と共存することを選択し、「自分が何に価値を置いているのか」を突き詰めた結果、精神的な安定を得ている。
例えば関西にいた時に出会ったある経営者は、自分の背の低さについて、非常に強いコンプレクスを抱いていた。
「私、背が低いでしょう?若いときはそればかり気にしててね。勝手にいつも「見下されている」って思ってたんです。そりゃ周りの優しい人たちは「そんなの全く気にしないよ」といいますよ。多分それはホントです。でも、やっぱり気にしますよね。」
「なるほど。」
「ただね、ウチの奥さんが、これがまた背が高いんです。最初であったときには「絶対並んで歩きたくないな」って思うほど。この奥さんが、私に言ってくれたんですよ。「背の悩みは尽きないですよね」と。なんかはっきり言われると逆に笑えてしまって……。」
「そうなんですね。」
「受け入れてもらうって、大事ですね。今ではそれほど気にならなくなりました。逆に、背が低いと憶えてもらいやすい、くらいに思ってます。」
コンプレクスが強力なエンジンとなるか、それとも足かせとなり、それに飲み込まれてしまうか。
悩ましいところである。
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